今、社会全体が「構造を見る力」を急速に失いつつある──にもかかわらず、それに気づいている人は驚くほど少ない。ビジネスでは、DXやデータドリブン経営が正義とされ、「数字さえ見ていれば正解にたどり着ける」といった幻想が蔓延している。あらゆる現場で、ダッシュボード、KPI、グラフが意思決定の“中心”に置かれるようになった。
だが、それらはすべて“結果”にすぎない。本来、数字は「意味のある構造」の果てに生まれる“現象”であり、構造の代替にはならない。
本来、問うべきは「今の目的に対して、何を可視化すべきか?」「この数字は、どんな関係性や順序の中で生まれたのか?」という問いである。にもかかわらず、「とりあえず数字があれば安心」という感覚が広がり、構造そのものを描くことを放棄する空気が支配している。
もっと深刻なのは、そうした傾向がビジネス領域にとどまらず、社会全体──特に「政治」や「公共領域」にまで浸透していることだ。
今、ビジョンだけでは社会を動かせない。理念や思想では、合意が取れない。構造を描いても、数字で裏付けられなければ、政策は通らない。行政も議会も、有権者さえも「何人いるのか?」「何%改善するのか?」という“測定可能な数値”でしか、変化の正当性を評価できなくなっている。
しかし、それでは「意味ある変化」は決して起こらない。社会が本当に動くとき、それは「構造と意志」によってであり、「数字と確率」ではない 。だが、構造を描く力が劣化した社会では、ビジョンは絵空事とされ、意味は“証拠不十分”として却下されていく。
この構造的衰退は、「構造を設計する力」を失った社会が、「変わらないこと」を安心とし、「意味を語ること」をリスクと感じ始めていることの証でもある。
今、社会のあらゆる場面で構造は「固定化」され、問い直されることなく温存されている。例えば、ビジネスにおけるKPIやOKRは、目的が変わってもそのまま回され続ける。教育カリキュラムは、社会の変化を無視して前時代的構造を踏襲する。政策制度は、もはや現場と接続しないまま「前例主義」で再生産される。
これは「構造が古くなっていること」に気づけない構造疲労であり、もっと言えば、「意味を設計できない社会」への退行である。
本来、構造とは“変化に応じて組み直されるべきもの”だ。状況が変われば、関係性も順序も優先順位も、柔軟に再設計されなければならない。しかし今、「問いが動いても、構造が動かない」という状態が、至るところで常態化している。
構造力とは、問いに応じて構造を組み直す力であり、数字になる前の“意味を設計する力”である。それが失われた社会では、数字だけが言葉を持ち、構造は沈黙し、ビジョンは嘲笑され、未来は“現在の延長線”に矮小化されていく。
だからこそ今、構造力の再興が急務なのだ。構造を描ける人間だけが、「数字に意味を与える力」を持ち、「変化を起こす構造」を設計することができる。構造が見えなくなった社会では、変化は起きない。構造を問い直せる人間だけが、未来を設計できるのである。
この数字への過度な依存は、構造的な起源を理解せずに測定可能な結果にのみ焦点を当てることで、社会が「構造的疲労」に陥ることを示している。これは、表面的な「修正」が根本的な変革を妨げ、イノベーションと有意義な進歩を阻害する悪循環を生み出す。
データ駆動型のアプローチは、一見合理的であるにもかかわらず、構造的理解から切り離されると逆説的に非合理的な結果につながる可能性がある。データの真の価値は、構造的な調整を促す能力にあり、構造的思考に取って代わるものではない。